音漏れ星人は地球から退出願いたい
先日電車に乗って出かける用事があった。
途中から混んできて、私の立っている隣に人が立った。
その人がいわゆる、「音漏れ星人」だった。
私は音漏れ星人という存在が大嫌いで、見かけるとタイトルの通り地球からいなくなってほしいと思うくらい嫌いなのである。
今時電車の中で音楽を聴く人なんて珍しくもなんともないし(ソニーの初代ヘッドホンステレオの発売から30年以上経っている)、こんなことにいちいち目くじらを立てていたら生きていけないのが現代なのだろう。
音漏れ星人が隣に来たので、私は宇宙と地球の歴史の長さを頭に思い浮かべてやり過ごそうとした。
地球の誕生から46億年。人類の誕生から1千万年。日本という国ができて2500年。それらの長い長い歴史の中に埋没するような数多くの小さな出来事だと自分に言い聞かせた。
………無理だ。
どうしてもあのイヤホンから漏れ出てくる騒音に意識がいってしまう。
こういう時、騒音の主はいつだって自覚のありそうな素振りがない。気がついていない、というやつだ。
しかし、音量が大きすぎる事に気がついてもよさそうなものだ。だいたい音量は勝手に上がることはない。聴く主が勝手に上げるものだ。
しかしもうじき終点の駅に着く。これ以上無駄に神経をすり減らす必要もないだろう。とりあえずSNSに悪態をつく程度で済ませておこう。たまたま本人が気がついてくれて音量を下げてくれることもありうるだろうし。
私はSNSに音漏れ星人についての悪態を書き込んだ。配慮として少しやんわりとした表現にしておいた。万一他人の目に触れても角が立たないように。
その時、電車が急ブレーキをかけた。私は立っていたのでもろにバランスを崩してよろめき、音漏れ星人と反対側の人に倒れてぶつかった。
ぶつかった相手に一言謝って立ち上がった。電車はもうじき終点の駅に着きそうだった。しかしタイミングが悪すぎる。まるで悪態をついたのを察知されて、仕返しだったんじゃないかとすら思うくらいだ。音漏れ星人にはそんな能力があったのか。
電車は駅に着いた。音漏れ星人はもちろん見知らぬ人なので問い詰めるわけにもいかない。こっちも用事がある。音漏れ星人に気づかれぬよう、若干だけ憎しみの感情を込めてにらんだ後、ホームに降りた。
気がついたら小説みたいになっていました。京アニに応募するわけではないです。
とにかく昔から音漏れ星人さんは嫌いだし、なんとかならないかとずーっと思っている。
さっきも書きましたがヘッドホンステレオの誕生から30年以上経っていますし、今の進歩したデジタル技術とかでなんとかならないもんでしょうか。
音漏れが嫌いすぎて電車通学ができなくて、最初に入った高校をやめてしまう要因のひとつになったので、鉄道会社とかオーディオメーカーとかはわりと本気で対策を考えてほしいと思う。長距離移動するのに毎回タクシー呼べるほどリッチではないし。
あと最後に、全国の音漏れ星人に言いたい。
他人に迷惑をかけないようにしようとか、野暮なことは言わない。
とにかく、やめてほしい。
電車の中で音量をちょっと下げるだけでいいのである。
みんな迷惑がってるますよ、とか言わない。
私個人が、あなたに対して、その行為をやめてほしいと切に思っているのです。
以上。
みんなコミュ障コミュ障って言ってるけど、じゃあコミュニケーションできてる状態ってなんなのって疑問
実はこれはけっこう前から疑問に思っていた。
インターネット上でよく「コミュ障」なる単語をよく見る気がして、「コミュニケーションに障害がある」って言いたいのを略しているようなのですが、ではコミュ障という単語を発している人に聞きたい。
「コミュニケーションできている状態とは、いったいどういう状態でしょうか?」と。
コミュニケーションできていない状態に焦点が当たりすぎていて、できている状態がどういう状態なのかまったくわからない。見たことも聞いたこともない。
あれはダメこれはダメと言いながら、これならいいっていう意見がないのはおかしいのではないだろうか。
あとは、文章を略したことによって本来の意味が損なわれていることに気がついてほしいと思う。
「コミュ(ニケーションに何らかの)障(害がある)」
の略なのか、
「コミュ(ニケーションに)障(害を感じている)」
の略なのかわからない。当たり前だが最初の文と次の文では意味が違う。
略することによって隠語っぽくして、意味をぼかしているのかもしれないが、意味をぼかすとコミュニケーションできている状態から遠ざかるということに気がついてほしい。
というか、コミュニケーションできている状態の具体例が出てくるのを望んでいる。
コミュニケーションできていない状態にばかり焦点が当たっている現状をなんとかしたほうがいいのではないだろうか、ということである。
あけましておめでとうございます
喪中の上、職も失ってしまったのでなにもおめでたくないのですが(真顔
今年の目標みたいなものを考えていたのですが、特に何も思い浮かばず。
あーまあノートパソコンを分割払いで買っちゃったので払わないとなーみたいなね。
そのくらいか。
でも全部障害者年金から払うから、年金機構か銀行がつぶれたりとかお金の使うペースを間違えて払えないとかなければ、何もしないでも手に入るはずです。
あとはねー、どうなりますかね。
また別のグループホームに移るか、それとも引っ越してしまうか、未定です。
仕事もどうなるかわかりません。できれば仕事らしい仕事をしたいけど、できるかはわからない。
できればお金もほしいけど、あんまり不快な思いをせず、そこそこ幸せならよいと思っています。
で、結局、発達障害って何が問題なのよって話 その2
発達障害ってか、障害があることの何が問題なのかという、けっこう真剣なことについて考えることがあります。
障がいは個性であるとか、そういうちょっと感情論的なのはさておき、ではやはり一体何が問題でどう対策をしたらよいのか。
今のアルバイト先は少し特殊で、重度の障害を持つ人のための施設です。
自分も障害者ですが、立って歩いているだけで自分は普通かもしれないと思えるくらい、重い障害を抱えている人ばかり集まっています。
身体的には車いすに乗っているのは当たり前、知的精神で言えば話す言葉はうめき声のような声しか出さない人ばかりです。
言葉でやりとりできている人でも、その内容の水準が低いのは当たり前で、とてもではないけれど人の助けを借りないと生きてはいけない人たちばかりです。
おそらく、このレベルの人たちは、一体自分の何が問題なのかということは、当然認識していないでしょう。
自分の事がわかるとか、自分に向き合うだなんてことは、一切しない、できない。
おそらくそのまま一生を送って終えていくと思われます。
まあ、だからなんなのという話ですが。
医学的にも社会的にも重くても、彼らは行くところがあり、余計なことも考えないのでそれでよいわけです。
医学的にとても重症で、もしかしたら生きているのも精一杯なのかもしれませんが、そういうことは私のような末端のアルバイトには知らされないし、現場の正社員のスタッフの方も知らないかもしれない。
社会的にも、おそらく自宅と施設を往復するだけで、せいぜい施設のイベントで出かける程度で、他の余計なことはわからないままだろう。それをどうこう言うつもりはない。
自分がずーっと考えているのは、軽度(医学的・社会的にも両方)、あるいは重度でも希望している人が、いかに一般社会に参加し、理想はなじんでいけることかということである。
いやもっと単純に、個々人の希望や望みのようなものが叶えられるにはどうしたらよいか、ということを考えている。
障がいがあるからといって、なにもかも諦めてしまわないといけないのでは、それでは当事者はなんのために生きていくのかわからないし、周りの人間にとっても絶望する原因にならないだろうか。
いくつも叶える必要はなく、ひとつでいいから、障害当事者の希望が叶うような、そんな世の中はだめでしょうか。
で、結局、発達障害って何が問題なのよって話
なんかまあ、周知はされてきているようですし、天下のNHK様がテレビやラジオでテコ入れして下さるようなので、良い情報がない無風状態から再度追い風が吹くように感じられるのですが。
盛り上がるだけ盛り上がって何も変わらない気がする、と言ったらクールすぎでしょうか。
うーん。
迷った時は原点へ、って思ったので、
「じゃあ、結局、何が問題なの?」
ってとこまで振り返ってみます。
まず、よく聞かれる(ていた)「生きづらさ」について。
個人的に好きではない表現だし(この表現を使うことで考えを止めてる感じがあるので、もうちょい具体的に言ってほしい)、最近はそんなにめちゃくちゃ感じることもないので、特に言う事はない感じです。
まあ強いて言うなら、昔はありました。「生きづらさ」。
誰も自分の事をわかってくれないし、表現もできない。発散もできない。
そんなモヤモヤした気持ちにずーっと襲われていた時期がありました。
期間で言うと、学生の時(20歳くらいまで)はだいたいずーっとそう思っていました。
他人との相対的な関係で生まれる感覚でもあるので、嫌でも人と接していると感じてしまうものです。
学校を出た後は任意で付き合う人間関係が増えたので、そういう意味では楽になりました。
嫌なら距離を置けばいいって思えばだいぶ楽になるものです。
仕事しないと生きていけないというわけでもなかったので、この時期が一番楽でした。
今は再度社会復帰というか社会参加というか、人との距離が近づいているので、そういう意味ではつらいです。
孤独感みたいのはほぼありませんが(SNSなんかやろうものならむしろ孤独になるほうが難しい)、価値観や考え方が違う人とたとえ表面的だけでも接しないといけないわけで、そういうのはきつい。
中には嫌な人もいるわけです。
悪意があるかないかにもよるわけですが(私は個人的に、悪意がない嫌な人がとても苦手です)、いずれにせよこういう人とも接していかないといけないわけです。
この苦痛のことを「生きづらさ」と言うのでしょうか。
わりと本気で生きづらさって何って気もするので(悩んでいる人には申し訳ないのですが)、なんだかよくわかりません。
アスペルガー的こだわりとかADHD的な落ち着きのなさからくる生きづらさだとしたら、それはまた別個に語らないといけないぽいので、触れません。
そう、最近、まったく申し訳ないことに、そしてすごいことに
「生きてて楽しい!」と思ってしまっているのです。
毎日ずっとではありませんし、つらかったりしんどかったりすることはあるのですが、「生きていて楽しい、充実している」と感じる瞬間は確かにある、と断言しておきます。
もちろんこれを他人に強要するつもりはないのですが、生きていればいい事あるではないですが、発達障害を抱えていてもそういう感情を味わうことはできるのではないでしょうか、ということは言っておきたいです。
いい加減白状しますが、どうも私は「生きづらい」ということについて語る資格はないようです。
生きづらさを克服したいとか思っていた人がいたらごめんなさい。ノウハウにできるほどの経験もないのでそういうこともできません。
まあ、あんまり生きづらさだの定型発達者がどうのとか言ってる事自体があまりよくない気もするので、そういうマイナスな発言を差し控える(いやなことは、あんまり、いわないようにする)ことが生きづらさの対処法になる、と言ったら言い過ぎでしょうか(さむい)
本当に最近情報とかも仕入れないし、何がどうなって誰が何について悩み考えているのかもわからないのですが、ほんとどうしたらいいんでしょうね。
特効薬ができたとかいう噂もなければ(あったら売れるか、という問題は別として)、当事者が報道されるレベルの犯罪をしたとか逆になんか表彰されたとかもないし、何も言う事がない。
知れば知るほど性格とか特徴の延長でしかない気がするので、本当にムダなんじゃないかと思うこともあります。
ふと思いついたのが、いわゆる二次障害とされる精神的な問題(不安、不眠、うつなど)。
これは具体的な症状だけに、困らされている人も多そうな気がする。
しかし、これらは対処したところであくまで精神的な問題への対処にしかならず、根本的な問題への対処にはならないと私は考えます。
意地悪を言えば、根本的に自分の思考や行動の習慣やパターンが変わらない限り悩まされ続けるので、根本的な問題への対処法が見つからない限りはどうしようもない、ということになる。
うーん、本当にいろいろ言い尽くされてて対処みたいのはしようがないと思うのですがね。
何人かの身近な友達を除いて人間関係もほとんどないし(人間関係が苦手だし、気が合う友達が何人かいればそれでいいと思っている)、だから情報も入ってこないし(ウソとか適当なあんまり根拠がない思い込みばっかりなので大半の情報はいらないと思うけど)、自分の問題は自分で対処して解決するしかないと思うのでとにかくいろいろ面倒だと感じているのです。
というわけで、何が問題なのかってのをタイトルにしたけど、何が問題かわかんないや、ってことで、おしまいなのかな。
ひとつ言えるのは、ちゃんと本でもネットでも多少は情報を得て自分で考えたほうが、何もわからないより不安みたいのは減るかな、ってことですかね。
「生きづらさ」みたいのも軽減されるかもしれませんよ。
発達障害の情報に正直飽き飽きしている
※クソリプ送るヒマがあるならPCやスマホを窓から投げ捨てて、ハローワーク行くか近所の線路に頭をつけて寝ましょう。
理由は単純で、何も面白くないから。
発達障害の情報のパターンはだいたい決まっている。
若い当事者
→「友達がいない! 自分の事をわかってくれる人が誰もいない! 不安! 怒り! リア充爆発しろ!」
中年の当事者
→「友達もいないし、金もないし、恋愛も結婚もできないんで絶望したので死にます」
子供が発達障害という親御さん
→「子供の将来が不安、いじめられないか心配、不登校にならないか普通学級と通級とどっちがいいのか就職はできるか恋愛は結婚は」
医師発の情報
「特定の物事に執着します」「感覚が過敏」「他人の感情を考えるのが苦手」「親は原因じゃないよ(親を原因にする奴死ね)、けど特に治療法はないよ」
の4パターンにだいたい当てはまると思う。
(えらそうな事言っておいてあれですが、最近は本もブログも真面目にチェックできておりません。あしからず)
ただ、4パターンしかない情報が果てしなく繰り返し発信されるのが続いていて、情報を得るのにお金や時間を使って対価を得られていると感じられなくなっているのが正直なところである。
わかっている、知っていることしか書いてないので、「わかったから、具体的な次の1手を打ちましょうや」と思うのである。
というか、最近はそれを通り越して、全部どうでもよくなりつつある。
不思議なくらい、建設的な意見が出てこないのである。
出てるかもしれないけど形になっていないし、成果が出ているという噂も耳にしない。
まあ、そもそも病気かどうかも怪しい概念なので(どこかの誰かさんのでっち上げという説すらあるらしい)、仕方のないことなのかもしれない。
しかし、これだけ情報は出回っているというのに、何ら具体的な対策が出てこないのは、誰か(どっかの政党とかか)の策略ではないかとすら思ってしまう。
もしかしたら、本当に何も対応しなくてよいのかもしれないが、だとすると今まであった当事者の活動ってムダだったってことにならないか、って気もする。
まあ、それはそれでいいことなのかもしれない。
困っている人が減るということだから。
問題は、とにかく具体的な対策と方針が明らかに欠如している、ということである。
単に情報を発するだけならいいかもしれないが、障害者というのは立派な社会のシステムの一部なのだから、だとすると方向性などはっきりしないままでは、何のために活動しているのか?ということにならないだろうか。
まさか、活動するために活動する、というあまり意味のない状態だというのだろうか。
えー。
さんざんここまで偉そうな事を言っておきながら、書いていて自分でも解決方法とかどこにあるやら、と思う。
「人生に正解はない!」と著書で言い放つ人までいるくらいで、そうなると本当に本当にどうでもいいというか、障害者だ健常者だという概念もなく、みんなただの一人の人間(あんまり好きな表現ではないですが、「個性」というやつでしょうか)、ということになる。
個人的には、それも言い過ぎな気もするので、ある程度の指標のようなものは必要なのではないか、と考えている。
そうでないと、何のために「福祉」や「障害者」などのシステムがあるのか?という、けっこう根本的な疑問にたどり着いてしまうのである。
「国」というのを持ち出すのはあまりよい事ではないのでしょうが、一応今の日本では「健康で文化的な、最低限度の生活を送る権利」というのが憲法で規定されているので、それを現代的に定義し(改憲とかじゃないですよ念のため、詳しいことはわからないので決して聞かないでね)、実行できればそれはひとつの解決法になるのではないか、というような事を考えることもある。
普段から憲法を意識する人はなかなかいないと思うので、もう少し簡単に言うと、「今、どんな暮らしをするのが人間らしいのだろう?」とも言い換えられると思う。
言葉は簡単になったけど、問題そのものは難しいと言わざるをえない。
なぜなら、人の暮らしというのは思った以上に多様で、どの生活が良いだの悪いだのということは簡単に決められないだろうからである。
それでもあえて挙げるとしたらお金とか資産を持っているか、みたいな基準が手っ取り早いが、それだと多くの人が貧しいということになってしまう。
長文を最後まで読んで頂いてありがとうございます。
最後に思うのは、「現代的な生活」というのを実践し(グループホームでしてますが)、ある程度でも定義することが有益な情報になり得るのではないか、ということです。
完全防音って果たして可能なの?
あけましておめでとうございます。
子供の頃は「年を越せるかどうか」なんて心配をしたことはありませんでしたが、成人になり毎年その言葉の重みを思い知っております。
当ブログは細々と続けていこうかと考えておりますので、今年もどうかよろしくお願いいたします。
さて今年一発目のテーマですが、タイトル通りでございます。
「完全防音って果たして可能なの?」
発達障害の症状として、聴覚の過敏さに悩まされている方も多いと思います。
私個人もさんざん悩み、自覚もなければ発達障害なんて言葉もなかった時期に
「耳を切ってしまいたい」と、まるで某オランダの画家のような事を思い、実際に口にしてしまったこともあり、変人扱いされた記憶があります。
今思えば当たり前だけど、やっぱりわかって欲しかったというのが本音です。
今回どうしてこのネタにしようかと思ったかというと、冬は皆様ご存じ
「灯油の販売車」が町中を走り回るので(高級住宅地にはいないらしいけど本当だろうか)、悪い事してるわけじゃないんだけどやっぱりうるさいなーと思うので、なんとかならないかと。
年末には古物回収のトラックも来て、家の近くまで来た時に本当に気が狂いそうになったので、これはちょっと考えを整理しないではいられないなと。
まず、あのトラックに近づいて「うるさい」などと言ったところで、面倒なことにしかならないというのは容易に想像できる。
何より向こうからしてみれば営業妨害なわけで、おそらく営業を止めてはくれないだろうと思う。
当事者としてはもちろんやめてほしいところであるが、向こうが副業だとか趣味でやってるからやめても特に困らないという状況でもない限り、やめてはくれないだろうと思う。
個人的にも面倒は避けたいので、建設的な解決策として「完全に外部の音を防げる方法はないか?」と考えたのです。
個人的に現在とっている防衛手段は、耳栓とイヤーマフである。
安価で手軽なので、おそらく誰でもとれる防衛手段である。
しかし、例えば廃品回収のトラックが家の前まで来てしまうとさすがに音が入ってきてしまうし、体質にもよるのでしょうが私は耳が腐り気味になってしまうので(密閉されることによって耳の穴の中の湿度が高くなりすぎるからだろう、と思っている)、本当はやめたいのが本音である。
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一時的な避難場所として、楽器の練習スタジオを借りるという手がある。
そこそこの規模の町なら楽器屋があるはずで、その楽器屋が練習やイベントのために防音設備があるスタジオを持っていることが多い。
相場は広さにもよるが、1時間500円くらいから借りられるところもある。広さや設備の充実度に比例して値段は上がる。
そこだけ壁を厚くしたり防音材を貼ったりなどして建築レベルでの防音をしているので効果はそれなりに期待できる。ドアもたいていは二重である。
ただし所有するのでもなければ基本的に「借りる」という形なので、いつでも使えるわけではない、自分だけの場所にはできないなどのデメリットもある。
ただ、比較的安価に安全な場所を確保できるという意味では利用価値はあると考えてよいだろう。
以下の方法は実践できていないのと、対策をとれるかどうかは住環境に大きく依存するので、冗談だと思って読んでいただきたい。
「だんぼっち」という商品がある。
これは元々、PCを利用して動画などを個人で配信する人向けの商品で、平たく言うと「段ボールでできた簡単な防音室」というようなものである。
何か配信するときの話し声を、アパートなどで隣に声が漏れないようにする目的で開発されたと考えられる。
私は今のところ何かを配信する予定はないので、中に入れば遮音が期待できるのであれば導入したいかな、と思っている。
ただし、それなりに大きいし、値段もそこそこするので、これでもし遮音性が低かったらと考えてしまう。
防音材・吸音材などを足す改造を施すのもどうだろうと思うが、内部がもともとそんなに広くなさそうなので、改造により居住性が落ちることも考えられなくない。
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楽器の練習用の防音室などはどうだろう。
楽器というのは基本的にそれなりに大きい音が出るものなので、専用の防音室はそれなりの効果が期待できるといっていいだろう。
しかし、設置は基本的に屋外なので、土地が必要になり、早い話庭付きの戸建てか土地ならいくらでもある田舎にでも行かないと設置できないだろう。
効果は大きいが代償も高いといえる。
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防音室・調音パネル - 製品情報 - ヤマハ – 日本
防音室のある物件(アパート、マンション)を借りるという選択肢もある。
不動産を探すサイトやアプリだとそういう条件を入れて検索するとヒットすることがある。
程度も様々で、「普通のワンルームだけど楽器可」というところもあれば、本当にしっかりとした防音室を備えた物件もある。
読者を失望させたくはないですが、やはり程度と家賃がほぼ正比例していて、せいぜい不便な立地だと多少家賃が下がる程度で基本的には防音のしっかりしているところは家賃も高い、と考えたほうがよいでしょう。
(「楽器可」なんてだいたいが普通のアパートに見えるし、大家さんが寛容ならそれはありがたいけど防音対策をしている旨を物件情報に載せておいてほしい、していないならそれは本当の意味で楽器可ではないのではないかと言いたいのはここだけの話)
個人的な推測で物を言うと、完全防音の部屋がある物件はかなり高級で立地もよく、お金持ちで趣味が楽器の人か音大生(芸大の音楽コース、音楽系の専門学校も含む)なんかが入居しているんじゃないかと思っている。
本当に非現実的な意見ですが、言います。
防音設備のある建築、家でもマンションでも好きなやつを、自分で建てるという選択肢です。
コンクリートを厚めにしてもらい、防音材吸音材を敷きつめ、しっかりとした鍵でもかければ完璧でしょう。
あとは内装を自分の好みにすれば居住性もよくなります。
問題としては、とにかく費用がかかる、今起こっている騒音に耐えられない場合すぐにとれる対策ではない、建てたところで騒音とは別の問題が起きたとしたら(隣人リスクとか)対策をとりづらい、おそらくローンを組まないと買えないので返済に追われる人生になる、などでしょうか。
自分にとって理想的な環境を作れるでしょうが、代償はとても大きいと言えます。
「金がかかる対策ばかりではないか!」と言われそうなので、そもそもあまり音のしないところで暮らすという選択肢はどうでしょう。
基本的に田舎ばかりになるので便利な暮らしではなくなるでしょうが、騒音にあまりに悩み苦しんでいるのであれば考えるのも手だと思います。
よほど僻地(青森とか鹿児島とか)に行かない限り日本国内なら標準的な日本語が通じますし、物価に至ってはたいてい地方のほうが安いです。
車が運転できるなら暮らしていける土地はさらに増えると考えられます。
考えられる問題点としては、都市での楽な暮らしに慣れ切った人間では田舎の過酷な生活環境にはなかなか慣れることはできないでしょうし、移住した先の人間と問題が起きるというのはよく聞く話です。(東京生まれの人間から言わせて頂くと、国家単位で考えれば都市の住民の地方への移住を柔軟に考えて頂くと今後日本はよりよい国になると思います、難しいでしょうが)
相応の覚悟が必要になってくるでしょう。
最後に。
(以下既存の書籍より引用、権利関係はわからんので好きにしてくれ)
日本を含むアジアの環境音に対する防護姿勢はおしなべて軽い。それは住居のつくりとも関係しているようだ。日本のむかしの住居は木と紙と藁から作られており、長屋などは粗末な土壁一枚で隔てられている。その頃は隣からの生活音が聞こえてきても「聞いていない」という環境順応をしてきたという。
外からの音が安易に入り込んできてしまう住居は、アジアの家づくりにとても多い。けれどこれは同時に心地のいい睡眠を持続させる音と微妙に隣接している、という別の見方もある。
(新潮新書 椎名 誠著「ぼくは眠れない」166ページより引用)
- 作者: 椎名誠
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この一文と、引用はしていないが前後の文章から察すると、
・日本人は基本的に建築レベルで住環境の防音に対する意識が低い。心理的な意味での防音しかしてこなかった。
・が、それは自然のリズムと一体で暮らすことでもあり、故に健康的で睡眠をとることも容易な家づくりであった。
(あくまで個人的な感覚に基づく意見です)
日本は明治維新から近代化を推し進めてきて、近代化によるメリットも享受し続けているので、今さら住宅を木と紙と藁で作っていたような時代には戻れないであろう。
となると、現代的な社会や住宅の事情に合わせた対策を練らねばならないということで、簡単には答えが出ない問題にぶち当たってしまったなーと思うのであります。