前回書いた記事について補足して語ってみる

 久しぶりのブログ更新であまりにも雑すぎたのと、補足して言いたいことがたくさんあるのでいろいろ書きます。



前回のブログ→幸福論というのについて語ってみる - 発達障害だけどとりあえずしばらくは生きる



「タイトルと内容がまったく一致していない」という致命的なミスはさておき、どうもこの世には


「肉親を尊敬できないどころか憎んでさえいる」


という人が一定数いるようで、例えばそういう人間に対して復讐的な意味合いで引きこもり続けるという人もいるようだ。
 だとすれば、その引きこもりには意味はあるわけで、前回のブログで批判したように「肉親の死に対して何もしないできないまま放置して殺した」という解釈は間違っていることになる。
 行為そのものの倫理的な意味は別として、家庭という閉じた人間関係の中では矛盾は生じていないし、もしも引きこもりの原因が「尊敬できない親」にあるとしたら、復讐を遂げたという意味でこの現象は間違っていないことになる。





 ひどく残酷な話になるようだが、「家族」というのは人間が生まれて最初に築く人間関係であり、その後も家庭という密度の高い環境で長い時間接していくことになる。
 その家族に恵まれればよいが、もし全く尊敬できない人間だったり、悪人がいた場合どうなるだろう。
 その悪影響は弱者、つまり子供に向くのである。
 しかも子供はあらゆる力を持たず、抵抗することもままならないのだ。
 世の中を見る目が歪み、最悪全てを信頼できない人間に育っても不思議はないのである。
 






 まあ、人間誰しも聖人君子になれるわけでもないし、理想の家庭を築ける保障がないなら家庭を作ってはいけないという決まりもない。
 親に恵まれなかったなら、あきらめるしかないのかもしれない。もっとも、それでも自分の人生を築いていけるような風にできるのが理想だとは思うが。







 個人的な話をすると、親にはまずまず恵まれたほうだと思っている。
 お金こそそんなになかったが、学歴はあり、知らないことはないのではというくらい何を聞いても答えてくれて、ご飯もおいしいので、どうも世間的にはこれ以上を望むと罰が当たるようだ。
 ただ世間はそんなに甘くなく、うっかり就活で「親を尊敬しています」などと言おうものなら「こいつは社会に目が向いていない」という判断をされ大方の面接で落とされるらしいので、良い親というのも困りものである。
 







 そろそろオチに入りたいと思いますが、個人的にはやはり「引きこもりが高齢化して親が先に死に、社会性のない高齢の当事者が残る」という現象はなるだけ避けたいと考えている。
 「家族・家庭」という閉じた人間関係や場所に客観的な視点を持った第三者の誰かが介入して問題を解決するか予防する、というシステムの構築をしたほうがよいと思うのである。
 「それはどうやるのか」と言われたら全く案がないので答えられないのですが、システムとまでいかなくてもそういうイメージをなるだけ多くの人に持ってほしい、と願うのです。
 もちろん、家庭というのはプライベートな関係・場所で、他人が干渉しない環境があるから成り立つものかもしれない。他人の目を気にしないで安らげる場所があるからやっていけるというのもあるだろう。








 しかし、一歩間違えれば、「他のどこに行っても通用しない人間」を作り上げる危険性があることに気がついてほしい。
 社会でやっていけるようになることが必ずしも幸福と結びつくとは言い切れないですが、やはり外でやっていける人間になるに越したことはないと思うのです。
(今問題を抱えている人にとってはつらかったかもしれないので、読まなかったことにしましょう)





 まあ、今はとてもいい時代である。
 家にいながらにしてネットでいくらでも人と繋がれるし情報も得られるから、無理に外に出ることもないのかもしれない。
 私もやはり「家が一番落ち着く」というのはずっと変わらない。







 しかし、インターネット上の情報も、結局は外で起きていることが情報源であり(テレビとかネット上の事も多々あるけど基本的にって意味)、情報はやはり視覚と聴覚だけでなく全身で得るほうが良いのではないでしょうか、と思うわけです。
 





 まあ、なんだろう。
 本当に引きこもらないと居場所がないような人にとっては、私程度の人間でも上から目線の憎らしい野郎なのかもしれない。
 日々コンプレックスと戦っていると言っても信じてもらえないのかもしれない。






 これでも、自分も楽しく生きられるようにしたいとか、例えば居場所がない人でもその居場所を少しでも広げたり増やしたりできないか、とずーっと考えて生きているのです。






 社会性はないかもしれないけど、一応体は動くから、だとしたらやらなくてはいけない事があるのではないか? やれることがあるのでは? と日々自問自答なのです。







 まああれです。
 悔いなく生きないと悔いなく死ねないと思うので。
 方法は人それぞれだろうけど、自分はこのやり方をとる、ということです。