で、結局、発達障害って何が問題なのよって話 その2

発達障害ってか、障害があることの何が問題なのかという、けっこう真剣なことについて考えることがあります。





障がいは個性であるとか、そういうちょっと感情論的なのはさておき、ではやはり一体何が問題でどう対策をしたらよいのか。






今のアルバイト先は少し特殊で、重度の障害を持つ人のための施設です。






自分も障害者ですが、立って歩いているだけで自分は普通かもしれないと思えるくらい、重い障害を抱えている人ばかり集まっています。







身体的には車いすに乗っているのは当たり前、知的精神で言えば話す言葉はうめき声のような声しか出さない人ばかりです。
言葉でやりとりできている人でも、その内容の水準が低いのは当たり前で、とてもではないけれど人の助けを借りないと生きてはいけない人たちばかりです。







おそらく、このレベルの人たちは、一体自分の何が問題なのかということは、当然認識していないでしょう。
自分の事がわかるとか、自分に向き合うだなんてことは、一切しない、できない。
おそらくそのまま一生を送って終えていくと思われます。









まあ、だからなんなのという話ですが。
医学的にも社会的にも重くても、彼らは行くところがあり、余計なことも考えないのでそれでよいわけです。







医学的にとても重症で、もしかしたら生きているのも精一杯なのかもしれませんが、そういうことは私のような末端のアルバイトには知らされないし、現場の正社員のスタッフの方も知らないかもしれない。
社会的にも、おそらく自宅と施設を往復するだけで、せいぜい施設のイベントで出かける程度で、他の余計なことはわからないままだろう。それをどうこう言うつもりはない。







自分がずーっと考えているのは、軽度(医学的・社会的にも両方)、あるいは重度でも希望している人が、いかに一般社会に参加し、理想はなじんでいけることかということである。
いやもっと単純に、個々人の希望や望みのようなものが叶えられるにはどうしたらよいか、ということを考えている。
障がいがあるからといって、なにもかも諦めてしまわないといけないのでは、それでは当事者はなんのために生きていくのかわからないし、周りの人間にとっても絶望する原因にならないだろうか。
いくつも叶える必要はなく、ひとつでいいから、障害当事者の希望が叶うような、そんな世の中はだめでしょうか。