発達障害の情報に正直飽き飽きしている

クソリプ送るヒマがあるならPCやスマホを窓から投げ捨てて、ハローワーク行くか近所の線路に頭をつけて寝ましょう。

理由は単純で、何も面白くないから。



発達障害の情報のパターンはだいたい決まっている。




若い当事者
→「友達がいない! 自分の事をわかってくれる人が誰もいない! 不安! 怒り! リア充爆発しろ!」




中年の当事者
→「友達もいないし、金もないし、恋愛も結婚もできないんで絶望したので死にます」




子供が発達障害という親御さん
→「子供の将来が不安、いじめられないか心配、不登校にならないか普通学級と通級とどっちがいいのか就職はできるか恋愛は結婚は」



医師発の情報
「特定の物事に執着します」「感覚が過敏」「他人の感情を考えるのが苦手」「親は原因じゃないよ(親を原因にする奴死ね)、けど特に治療法はないよ」





の4パターンにだいたい当てはまると思う。
(えらそうな事言っておいてあれですが、最近は本もブログも真面目にチェックできておりません。あしからず)




ただ、4パターンしかない情報が果てしなく繰り返し発信されるのが続いていて、情報を得るのにお金や時間を使って対価を得られていると感じられなくなっているのが正直なところである。



わかっている、知っていることしか書いてないので、「わかったから、具体的な次の1手を打ちましょうや」と思うのである。




というか、最近はそれを通り越して、全部どうでもよくなりつつある。




不思議なくらい、建設的な意見が出てこないのである。




出てるかもしれないけど形になっていないし、成果が出ているという噂も耳にしない。





まあ、そもそも病気かどうかも怪しい概念なので(どこかの誰かさんのでっち上げという説すらあるらしい)、仕方のないことなのかもしれない。





しかし、これだけ情報は出回っているというのに、何ら具体的な対策が出てこないのは、誰か(どっかの政党とかか)の策略ではないかとすら思ってしまう。





もしかしたら、本当に何も対応しなくてよいのかもしれないが、だとすると今まであった当事者の活動ってムダだったってことにならないか、って気もする。





まあ、それはそれでいいことなのかもしれない。
困っている人が減るということだから。






問題は、とにかく具体的な対策と方針が明らかに欠如している、ということである。




単に情報を発するだけならいいかもしれないが、障害者というのは立派な社会のシステムの一部なのだから、だとすると方向性などはっきりしないままでは、何のために活動しているのか?ということにならないだろうか。




まさか、活動するために活動する、というあまり意味のない状態だというのだろうか。




えー。
さんざんここまで偉そうな事を言っておきながら、書いていて自分でも解決方法とかどこにあるやら、と思う。



「人生に正解はない!」と著書で言い放つ人までいるくらいで、そうなると本当に本当にどうでもいいというか、障害者だ健常者だという概念もなく、みんなただの一人の人間(あんまり好きな表現ではないですが、「個性」というやつでしょうか)、ということになる。





個人的には、それも言い過ぎな気もするので、ある程度の指標のようなものは必要なのではないか、と考えている。





そうでないと、何のために「福祉」や「障害者」などのシステムがあるのか?という、けっこう根本的な疑問にたどり着いてしまうのである。





「国」というのを持ち出すのはあまりよい事ではないのでしょうが、一応今の日本では「健康で文化的な、最低限度の生活を送る権利」というのが憲法で規定されているので、それを現代的に定義し(改憲とかじゃないですよ念のため、詳しいことはわからないので決して聞かないでね)、実行できればそれはひとつの解決法になるのではないか、というような事を考えることもある。






普段から憲法を意識する人はなかなかいないと思うので、もう少し簡単に言うと、「今、どんな暮らしをするのが人間らしいのだろう?」とも言い換えられると思う。





言葉は簡単になったけど、問題そのものは難しいと言わざるをえない。
なぜなら、人の暮らしというのは思った以上に多様で、どの生活が良いだの悪いだのということは簡単に決められないだろうからである。




それでもあえて挙げるとしたらお金とか資産を持っているか、みたいな基準が手っ取り早いが、それだと多くの人が貧しいということになってしまう。





長文を最後まで読んで頂いてありがとうございます。
最後に思うのは、「現代的な生活」というのを実践し(グループホームでしてますが)、ある程度でも定義することが有益な情報になり得るのではないか、ということです。