幸福論というのについて語ってみる

「ひきこもりの親が高齢化し、親が先に死んで家と財産が残ったけど、子供は家に残り続けようとした」
という、嫌な記事を読んだ。
diamond.jp






無意識レベルでそういう「人生の暗部」みたいなのを気にしてしまう自分も嫌になるが、そういう事が起こってしまうという現実にもまた嫌になる。







まあ、避けられないことなのだろう。
現代に限らず、おそらくそういう人間はいつの時代にも一定数いて、気づくか気づかないかの差に過ぎないのだろう。







が、個人的にはこういう事態になるのは避けたいと思っている。






当事者及び周辺の人々には申し訳ないのだが、客観的に見てこういう事態を望む人がいるとはとても思えない。






実は個人的に知っている人で、似たような状況を引き起こした人を知っていて(発達障害の診断を受けている)、その人は一応仕事はしていたのだが、「肉親の死に対して特に何も対策をとらなかった」という点で共通していて、いずれ来る変化に対して受動的であるという点でなんだか残念な気持ちになってしまった。たとえ障害者であったとしても。







まあ、こういう意地悪を言うのはあまり良いことではないのだろう。
他人の家で起きたことだし、別に親がどうなろうとどうでもいいという哲学を持っている人かもしれない。






「極端に言うと人生に正解はない」と書いてある本を読んだので、こうなるとますますよそで起きたことに口出しするのは野暮ということになってくる。







が、私は自分に嘘をつきたくない。








この問題について疑問と拒否感のようなものがある。










まあ、私も当事者であるし、引きこもることが悪とは言わない。









個人的には、「生まれた村から一歩も出たことがないおばあさん」とか「毎日同じ電車に乗って通勤してる人」とかも広義で言ったら引きこもりだと思うので(暴言でしょうがちょっと考えればわかると思います)、そう考えると潜在的な引きこもりはかなりいる事になり、じゃあ一体普通の人と引きこもりの境目はどこにあるやら、と思うわけです。









ようやくタイトルとつながりますが、幸福論のないままやみくもに働いても大して意味はないし、抗議的な意味で引きこもるというのはよくわかるので、そういう引きこもりなら断然「あり」だろう。









しかし、この件についてはとても考えさせられる。
良くない社会に対して抗議するという勇気ある行動をとったはずの人間がバカを見ているとしか言いようがない現象である。







同時に、「引きこもったら結局社会性を失って何も対策をとれなくなる」という典型にもとれる。







結局何が言いたいかと言いますと、私も同じようになりそうでとても不安だということです。








はあ